「夢をみることの大切さ」「愛」「信じる心」「勇気」、人生で大切なことを教えてくれるディズニー作品は、今もなお世界中で愛され続けています。
数々の名作やキャラクターを生み出したウォルト・ディズニーですが、意外にも「挫折が多かった」というのをご存じでしょうか。
今回は、生涯にわたって挑戦し続け不屈の精神で夢を叶えたウォルトが、一体どんな人生を歩んできたのかその生い立ち、人生の歴史についてまとめました!
ウォルト・ディズニーはどんな人?
生い立ち
幼少期
ウォルトは、教師の母と鉄道員の父のもと、1901年にアメリカのシカゴで5人兄弟の4男として生まれました。
ウォルトが4歳の頃、一家はアメリカミズーリ州、マーセリーンの農場を買い取り引っ越します。
大好きな鉄道、田舎の豊かな自然や動物に囲まれたマーセリーンでの生活をウォルトはとても気に入りました。
のちに「夢見る木」と呼ばれた大きなハコヤナギの樹の下で、生き物をスケッチして過ごし、物語を添えて妹に聞かせていたといいます。
また、絵を描くのが好きだったウォルトは、7歳の頃には描いたスケッチを近所の人に売っていたんだとか。
ウォルトは、「私の人生に影響を及ぼすような出来事はマーセリンで起きた。」と語っており、豊かな自然や動物、大好きな鉄道に囲まれた幼少期は、彼にとって特別なものでした。
一家を襲った貧困
とはいえ、ディズニー一家は、決して裕福ではなかったといいます。
農場の経営はしだいに悪化したため、農場での生活も長くは続かず、マーセリーンでの生活はわずか4年半でした。
父親と金銭のことで衝突した2人の兄は家を出てしまい、父親自身も肺がんにかかったことで、農場を売却。
以後、一家はカンザス・シティに引っ越し、農場を売却したお金で新聞販売店を始めます。
9歳のウォルトは、兄(ロイ)とともに1日2回、朝・夕の新聞配達を手伝いながら、小学校に通う生活を送りました。

朝3:30に起きる、新聞配達を6年間継続したそう。
大きくなってからも、ウォルトは兄(ロイ)と様々なアルバイトをしたようです。
15歳の夏休みにウォルトは、鉄道へのあこがれもあって、年齢を1歳ごまかし、鉄道の車内販売の売り子として働いてたことも。
父親がシカゴのゼリーとジュース工場の株式を取得してからは、工場経営をするため、一家は再びシカゴへ渡ります。
ウォルトは、高校に通いながら、両親のゼリー工場を手伝いつつ、夜間は美術学校に通い、本格的に絵の勉強をしていたといいます。



父親は非常に厳格だったため、子どもたちとはあまり関係が良くなかったといいます。
不安定な社会情勢
1914年にヨーロッパにて、第一次世界大戦が勃発。
愛国心が強かったウォルトは、高校と夜間の美術学校を退学し、16歳の時に年齢を1歳ごまかして入隊しました。
兄と(ロイ)と同じく陸軍を希望していましたが、年齢の関係上、説得され、赤十字の衛生兵として兵士の治療と輸送に従事します。
17歳で帰国すると、「自分の工場で働く」と決めつけていた父親に対し、「僕はね、漫画を描くアーティストになりたいんだ」と宣言しました。
「漫画家」から「アニメーション制作」の道へ
生涯の友人 アブ・アイワークスとの出会い
実家へは戻らず、漫画家になるため、単身でカンザスシティへ向かったウォルト。
新聞社で漫画を描く仕事を請け負いますが、依頼は少なく、日々の生活は苦しかったそうです。
その後、銀行員の兄(ロイ)の紹介で広告デザイン会社「アート・スタジオ」に就職します。
そこで出会ったのがアブ・アイワークスという人物であり、2人はすぐに意気投合しますが、翌年には2人して契約は更新されず、失業してしまいます。
そこで、ウォルトとアイワークスは、2人でデザイン会社を創設し共同経営者となるも、わずか1か月で閉業。
理由は、生活のためにウォルトが「カンザスフィルム社」にアニメイターとして採用されたためだといいますが、しかし、これがウォルトの転機となりました。
そこで短編アニメーションを制作するうちに、興味が漫画からアニメーションへと移り、のちのアニメーション映画の製作へと繋がったからです。
アニメーションの世界へ
19歳だった1921年6月に、ウォルトは個人事務所「Laugh-O-Gram Studio」を設立しました。
初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作し、それが高評価を得て、アニメ制作の仕事が順調に舞い込むようになります。
個人製作では追い付かないと感じたウォルトは、アニメーション制作会社へと拡大するために、アブ・アイワークスや仲間らを誘い、ともにサイレントアニメーションを作成。
クリエイター気質だったウォルトは制作にのめりこみ、資金のやりくりが乱雑になることもありました。
また、財政支援者の破産により資金回収ができなくなり、2年弱ほどで倒産してしまいます。



ここまでで、2度の倒産を経験していたのですね。
これには、さすがのウォルトも傷心だったとか・・・。
「ディズニー社」設立とミッキーマウスの誕生
ディズニー社設立
しかし、ウォルトは傷心するも、一念発起して、兄(ロイ)の住むハリウッドへ向かうことに決めます。
そして、22歳だった1923年に兄(ロイ)と共に「ディズニー・ブラザーズ・スタジオ」(のちの「ウォルト・ディズニー・カンパニー」)を立ち上げました。
「アリス・コメディシリーズ」や「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を主人公にしたアニメが人気を博し、アメリカ屈指のアニメ制作会社へと急成長しました。
経営を兄(ロイ)が担い、ウォルトは制作を担当するという形となって、ようやく手掛けた作品を安定して販売してく流れが出来上がったのです。
逆境の中で誕生した、「ミッキーマウス」
順風満帆に思えた矢先、1928年2月、ユニバーサルスタジオ(配給会社ミンツ)との間に金銭トラブルが発生します。
製作費交渉の結果、ウォルトは自分で手掛けたオズワルドの版権をはく奪され、大量のアニメーターと配給会社を失い、会社は厳しい状態に追い込まれてしまいます。
結局、ウォルトのスタジオに留まったのはアブ・アイワークスとレス・クラークのたった2人だけでした。
しかし、失意のどん底でも、ウォルトは諦めませんでした。
契約上、制作しなければならないオズワルド作品4本を仕上げる傍ら、窮地を打破するために新しいキャラクターを生み出す必要があると考えます。
そして、ウォルトの盟友アイワークスと共に生み出したのが、「ミッキーマウス」でした。
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ミッキー作品が人気に!長編カラーアニメーションへの挑戦も。
1928「蒸気船ウィリー」でミッキーが人気者に。
1928年にはミッキーを主役にした『蒸気船ウィリー』を制作し、世界初の映像と音声が同期した「トーキー映画」のアニメ製作に成功し、人々を驚かせます。
公開後、すぐに大ヒットとなり、ミッキーは世界中で知られることになります。
1937「白雪姫」の大ヒット。
「世界初のカラー長編アニメーション映画」であり、ディズニー作品の原点であり最高峰とうたわれる作品を生み出します。
当時は、「アニメーション=短編、子ども向け」のイメージが強く、長編など誰も想像したことがなかったという時代でした。
初めこそ人々の反応は冷ややかなものでしたが、大恐慌の中で挑戦し、見事常識を覆したのです!
ウォルトが手掛けた作品一覧


カルフォルニアディズニーランドの設立
きっかけは、ウォルト自身の実体験だった
ディズニー社はアニメーション映画で成功していたのに、なぜ、多額の借金を背負ってまでテーマパーク産業への参入を決めたのでしょうか。
きっかけは、ウォルトの実体験からでした。
ウォルトは娘2人がいましたが、よく休日に娘を連れて、動物園や遊園地に行っていました。
ある時、メリーゴーランドに乗って楽しんでいる娘たちの傍ら、ベンチでポップコーンを食べている自分に気づき、「大人と子どもが一緒に楽しめる場所が必要だ」とひらめいたのだそうです。
しかし、当初、その計画の成功を信じる者はほとんどいませんでした。
アニメーション会社が遊園地を作るというのは前代未聞のことであり、銀行ももちろん出資してくれず、断られた数なんと300回!
それでも、ウォルトは絶対にあきらめませんでした。
フロリダの自宅を売却するなど、個人のすべての資源をつぎ込んで資金をつくり、ディズニーランドがどれだけ素晴らしいか語り続けました。
資金難に加えて従業員のストライキなど、多くの苦難があり、ウォルトも不安を抱えながら計画を進めていたようです。
そして、1955年7月17日にカルフォルニアに初の「ディズニーランド」の建設を実現!
構想15年、予算は当初の3倍の1億6000万ドルの費用をかけて、ついに世界初の夢の国が開園したのです。
最後まで、夢を見続けたウォルト
ウォルトは、フロリダディズニーランド建設前の1966年12月15日に、肺がんのため65歳で亡くなりました。
周りにはほとんど病気のことは口外せず、努めて明るくふるまっていたといいます。
亡くなる前日まで兄(ロイ)に、病室の天井を指さし、フロリダに計画していた「ディズニー・ワールド」のレイアウトを説明していたという話には、驚きました。



「映画のような夢の世界を体験してもらいたい」というウォルトの情熱は、病気であっても奪うことはできませんでした。
最期の想いを託された兄(ロイ)は、フロリダ計画を見事完成させ、1971年に亡くなるまで経営の第一線に立ち続けました。
まとめ
この記事では簡単に、ウォルト氏の生い立ちと、人生の歴史についてまとめました。
想像以上に数々の逆境やピンチがあったにもかかわらず、あきらめずに挑戦し続けたその生き方に感動し、とても勇気をもらいました!
また、兄(ロイ)や素晴らしいクリエイターの仲間たち、家族、みんなの力で大きな夢を実現できたのだということも忘れてはいけないなと思いました。
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